神仏霊魂

カミとホトケそれからスピリットあるいはタマ。なかなか言葉の難しい領域である。日本語でカミというと既にキリスト教古代ギリシャの神々と同類のものとされてしまう。古事記ではアマツカミとクニツカミという重要な区分のあることも忘れられ八百万の神一神教のカミ同様にすべてカミである。しかし神祇というわけで社に奉られる天神地祇はすべてカミだったのだろうか。つぎにホトケだがもともと仏教の修行者ブッダからくるこの仏の文字は普遍的なカミとして西洋に対比される東洋の唯一神ともみえるが、やはり修行の道とされるホトケの道という言い方のごとくどこまでも人間であろう。スサノオなど古来の神が人間であるように自然と先祖の意味になる。仏さまといえば位牌のことを指すのは御札と同種である。それゆえに神仏習合あるいは天から仏が地の神に降りる垂迹思想が生まれる。普遍が個別に反映するのだ。これだけでも厄介なのだがほかに霊や魂がある。霊魂という明治時代風の概念はスピリットという語彙で西洋の中世的な精霊とか近代的な精神とかに結びついてしまう。霊的なものも精神的なものもスピリチュアルで一括される。日本語ではむしろタマである。御霊(みたま・ごりょう)とか魂(たましい)とか。遠方にある神仏と少し違って心(こころ)に近い内容を持っているのがタマだ。かといって生きている我れの内的実態であるよりは、物(もの)のように自分や相手とは別の外的な質量をもつように把握される。幽霊や魂魄のごときは生命を生命たらしめる浮遊する何かと想念される。鬼神とは少し違う。狐憑きともいささか。このようなモノの性格をもつ霊(タマ)にコトの性格を持つ言葉を接合した言霊(コトダマ)が実に興味深い。木霊(コダマ)との対比でもう少しこの言葉に近づける気がする。