柴門の辭 (許六離別の詞)

 去年の秋かりそめに面(おもて)を合わせ、今年五月の初めに深切に別れを惜しむ。其の別れに臨みて、一日草扉を叩いて、終日(ひねもす)閑談をなす。其の器、畫(ゑ)を好ム。風雅を愛す。予試みに問ふ事あり。「畫は何の爲め愛すや。」「風雅の爲め好む」といへり。「風雅は何の爲め愛すや。」「畫の爲め愛す」といへり。其の學ぶ事二つにして、用をなすこと一なり。まことや、「君子は多能を恥づ」と云へれば、品二つにして用一なる事、可ㇾ感(かんずべき)にや。畫は取って予が師とし、風雅は教へて予が弟子となす。されども師が精神徹に入り、筆端妙をふるふ。其の幽遠なる所、予が見る所にあらず。予が風雅は夏炉冬扇(かろとうせん)の如し。衆に逆ひて用ふる所なし。たゞ釋阿(しゃくあ)西行のことばのみ、かりそめに云ひちらされしあだなる戲(たはぶ)れごとも、哀れなる所多し。後鳥羽上皇の書かせ給ひしものにも、「これらは歌に實(まこと)ありて、しかも悲しびを添ふる」と宣(のたま)ひ侍りしとかや。さればこの御言葉を力として、其の細き一筋をたどり失ふる事なかれ。猶、「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ」と、南山大師の筆の道も見えたり。風雅も又これに同じと云ひて、燈(ともしび)をかゝげて、柴門(さいもん)の外に送りて別るゝのみ。
 元禄六盂夏末 風羅坊芭蕉


頴原退蔵校注『芭蕉文集』(朝日新聞社・日本古典全書)より *釋阿(藤原俊成)、南山大師(空海)元禄六年(1693年)