茶 ふだん記

 ・・・文章は、職業家にはパンのカテであろうが、一般人にはカテでもなんでもない。「どう書くか」ではない。「何を書くか」である。有るかないかである。高尚ぶって教訓めいたことや、物識(ものしり)、自慢のひけらかしはいらない。生活のこと、地方のこと、ありのままに何でも書けばよい。自分の技術として、自由にこなして書けば、それでよい。そんなことを頭において、昔、書いたのが、次の文章である。

  茶
 今から五十年も、もっと前、多摩地方の田舎では、屋敷のまわりに「茶の木かぶら」があり、手よりの茶が飲めた。心持ち疲れたとき、久方ぶりで立寄った、旧知の農家の縁側や、囲炉裏(ひじろ)ばたでくんでくれる渋茶、これに添えて出してくれた、やや塩気のきいた香物の味は忘れられない。その香り、やや冷たい香の物の塩気、身体のすみずみまでしみわたる暖い茶の味、それは何十年後の今でも甦ってくる。
 はげたお盆、時代がかったキビショ(きゅうす)と茶碗(ちゃわん)、もてなすその家の素朴な人々の応対……私にはどんな茶わん、茶室、名器よりも、あれが最高だったような気がする。形式、見せ物、うわずった芝居事、何やらの理屈、そういうものを乗り越えて、その頃の農家の茶のもてなしにひかれる。
 その頃の農家は貧しかった。来客の時はお茶や香の物がもてなしであった。物日(ものび)、節句などには手づくりの茶菓子はあるが、その他の日は何もない。
 でも、もてなす心があふれていた。謡曲『鉢の木』にも似たような、真実のもてなしにたぶたび出あった。
 土と緑の、草屋根の農家の縁先でもよい。囲炉裏(ひじろ)があればなおよい。そこで素朴なお茶のふるまいに、あずかりたいと今も夢みている。
 雑木林があり、ここに径(みち)がある。そこをゆくと草ぶきの農家がある。そこに年のころ六十を五つぐらい越えた主人と、三つほど年下の女房がいる。その顔には、時の流れから受けた皺(しわ)が、年輪のように感じられる。私はこんな家で、渋茶の饗応を受けたい。そんな風景がどこかにほしい。(1972・3・13)


橋本義夫『だれもが書ける文章 「自分史」のすすめ』(講談社現代新書522・昭和53年10月20日第一刷・5 何を書けばよいか 地方文化をもりたてよう)

解説 交遊と閑居

 ・・・そのような、世の中のどこにでもいる人間同士が、互いに親しくなるということが意外に少ないのが現実で、学生は学生同士、会社員は会社員同士、商店主は商店主同士のつきあいが一つの枠になって、その人の人生を型に嵌(は)めてしまう。吉田が『交遊録』の中で、「人間であるといふことは誰とでも、或は少なくともどういう仕事をしてゐる人間とでも付き合へることを意味し、それならば友達にもその職業の上での制限がある訳がない」と述べていることは、『東京の昔』の世界と一直線に繋がっている。ちなみに『交遊録』は、『東京の昔』の刊行とちょうど同じ年の同じ三月に出た本で、祖父牧野伸顕(まきののぶあき)と父吉田茂を両端に置いて、英国留学で出会った人々や、帰国後に親しくなった文士たち、灘の酒造りの名人など、多彩な友達のことを書いている。文芸誌への連載は『交遊録』の方が一年近く早い出発だったが、その最後の二回は、『東京の昔』の連載の、最初の二回と時期が重なっている。
 ところで帝大の森を借景に、町中に住んでこれといった職にもつかず、しかも人生に窮することのない主人公の生き方は、「閑居」の一言に尽きよう。『東京の昔』は、交遊記であると同時に、閑居記でもある。湯豆腐とおでんの冬、風が吹いて埃が立つ春、若菜青葉が目に燃え立ち、雨が続いて泥道の電信柱に自転車が立てかけてある夏…。
 しかしこう書いてくれば、実際はこれらのことが現代のわたしたちの周囲から消え去ったわけではないことに気づく。作品の舞台になっているのは一九三〇年代、言い換えれば昭和一桁(ひとけた)から十年代半ば頃までという時代である。戦争の危機をしのばせながらも、明治以来の近代日本が、ひとつの成熟期を迎えて小休止しているような、かつてない時代の相貌を描いているところに、この本の真骨頂がある。けれども『東京の昔』は、過ぎ去ってしまった戦前の情景や人情を、吉田健一が懐古しているだけの小説ではない。今という時間をどう生きるかという理想を、問題にしているのである。この本からいつまでも古びることのない新鮮な感じを受けるのは、普段わたしたちが、ややもすれば季節の移ろいや天候の変化を気にも留めず、毎日を齷齪(あくせく)送りがちだったと思い出させてくれるからだろう。
 閑居とは、何もすることがなくて、ぶらぶらしている状態を意味するのではない。今を生きる喜びと楽しみを、実感しながら生きることが閑居であって、この生き方こそは、いつの時代にも、人が憧れつつ、なかなか実現できない生き方だった。それでも、今を生きる喜びと楽しみは、自由な読書人である兼好が書いた『徒然草』にも、太閤秀吉の甥で関ヶ原の合戦後、東山に隠遁した木下長嘯子(ちょうしょうし)の風雅な住居記にも、モーツァルトと同じ十八世紀半ば生れの太田南畝(おおたなんぽ)の文業にも、途絶えることなく続いて、近代を迎える。・・・

島内裕子「解説 日本的な文明批評の到達点」(ちくま学芸文庫『東京の昔』・2011年1月10日 第1刷)より

柴門の辭 (許六離別の詞)

 去年の秋かりそめに面(おもて)を合わせ、今年五月の初めに深切に別れを惜しむ。其の別れに臨みて、一日草扉を叩いて、終日(ひねもす)閑談をなす。其の器、畫(ゑ)を好ム。風雅を愛す。予試みに問ふ事あり。「畫は何の爲め愛すや。」「風雅の爲め好む」といへり。「風雅は何の爲め愛すや。」「畫の爲め愛す」といへり。其の學ぶ事二つにして、用をなすこと一なり。まことや、「君子は多能を恥づ」と云へれば、品二つにして用一なる事、可ㇾ感(かんずべき)にや。畫は取って予が師とし、風雅は教へて予が弟子となす。されども師が精神徹に入り、筆端妙をふるふ。其の幽遠なる所、予が見る所にあらず。予が風雅は夏炉冬扇(かろとうせん)の如し。衆に逆ひて用ふる所なし。たゞ釋阿(しゃくあ)西行のことばのみ、かりそめに云ひちらされしあだなる戲(たはぶ)れごとも、哀れなる所多し。後鳥羽上皇の書かせ給ひしものにも、「これらは歌に實(まこと)ありて、しかも悲しびを添ふる」と宣(のたま)ひ侍りしとかや。さればこの御言葉を力として、其の細き一筋をたどり失ふる事なかれ。猶、「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ」と、南山大師の筆の道も見えたり。風雅も又これに同じと云ひて、燈(ともしび)をかゝげて、柴門(さいもん)の外に送りて別るゝのみ。
 元禄六盂夏末 風羅坊芭蕉


頴原退蔵校注『芭蕉文集』(朝日新聞社・日本古典全書)より *釋阿(藤原俊成)、南山大師(空海)元禄六年(1693年)

ポイントプログラムの設定解除

調べたら「はてなダイアリーポイントプログラム」の設定を解除すればよいとのこと。すぐにやってみた。しかし気持ちが萎えたので、今まで通り使うかはわからない。しばらく様子を見るつもり。

民主と統一会派見送り=大地

 新党大地・真民主鈴木宗男代表は23日、国会内で記者団に、衆参両院での民主党との統一会派結成を見送り、「新党大地・真民主」として会派届を両院事務局に提出する方針を明らかにした。民主党内の手続きに時間がかかるほか、独自の情報発信もあった方がいいと判断したという。会派届提出後の衆参両院の勢力分野は次の通りとなる。
 【衆院
 民主・無所属クラブ291▽自民・無所属の会120▽公明21▽共産9▽きづな9▽社民・市民連合6▽みんな5▽国民新・新党日本5▽大地・真民主3▽たちあがれ日本2▽無所属8▽欠員1
 【参院
 民主・新緑風会104▽自民・たちあがれ日本無所属の会86▽公明19▽みんな11▽共産6▽社民・護憲連合4▽国民新4▽新党改革2▽大地・真民主2▽無所属4(2012/01/23-20:17)時事

橋下・松井両氏が逢坂民主WT座長と会談 都構想対応で

2012年1月23日朝日関西

 大阪都構想への対応を議論している民主党の大都市制度ワーキングチーム(WT)座長の逢坂誠二衆院議員は23日、大阪市役所で大阪維新の会代表の橋下徹大阪市長、同会幹事長の松井一郎大阪府知事と会談した。

 逢坂氏は会談後、「2年前に閣議決定した地域主権戦略大綱に沿って、地域で決定したことを尊重すべきだと思う」との見解を示す一方、「(法改正は)前原誠司政調会長の判断になる」と態度を保留した。

 橋下氏は「こちらの考え方は完璧に近いくらい理解してもらった」と述べた。ただ、松井氏は会談のなかでみんなの党自民党が作成している地方自治法の改正案に賛同するよう要望。「賛成という言葉はいただけなかった」と明かし、「民主党に都構想の意味があまり伝わっていないと感じた。都構想は民主党の中では主流ではないと思った」と指摘した。

減税日本、マニフェスト作成へ 衆院選向け、3月までに

asahi.com 2012年1月23日1時32分

 減税日本(代表・河村たかし名古屋市長)の議員総会が22日、名古屋市であり、次期衆院選の党のマニフェストを3月までにつくり、公認候補者を公募する方針を決めた。

 マニフェストは、減税、地域の独立、議員報酬を民間給与並みに引き下げることを柱とした。選挙対策本部も立ち上げ、本部長に党幹事長の広沢一郎・愛知県議が就任。候補者の公募は名古屋市内の選挙区を中心に進める。広沢氏は「少なくとも愛知1〜5区は公認候補を立てる」と語った。

 この日の総会には、愛知県内外から党所属の議員約40人が参加。終了後、河村市長は自身の国政への転身について「今は市の予算編成を全力でやっています」と明言を避けた。