昭和二十年十二月十七日

 公は(十六日未明)二時頃、通隆君に、「僕の心境を書こうか」といはれ、通隆君に筆と紙を要求されたが、附近に筆がなかつた為、鉛筆を渡し長い紙を切って渡した処、「もっと立派な紙はないか」といはれ、近衛家の便箋を探して、左の如く書いて渡された。  

 僕は支那事変以来、多くの政治上過誤を犯した。之に対し深く責任を感じて居るが、所謂、戦争犯罪人として、米国の法廷に於て、裁判を受けることは、堪へ難いことである。殊に僕は、支那事変に責任を感ずればこそ、此事変解決を最大の使命とした。そしてこの解決の唯一の途は、米国との諒解にありとの結論に達し、日米交渉に全力を尽したのである。その米国から、今、犯罪人として指名を受ける事は、誠に残念に思ふ。
 しかし、僕の志は知る人ぞ知る。僕は米国に於てさへ、そこに多少の知己が存することを確信する。
 戦争に伴ふ昂奮と激情と、勝てる者の行過ぎた増長と、敗れたる者の卑屈と、故意の中傷と、誤解に本づく流言蜚語と、是等一切の所謂輿論なるものも、いつかは冷静を取戻し、正常に復する時も来よう。其の時初めて、神の法廷に於て、正義の判決が下されよう。

 …余は未だに茫然たるの時期を脱しない。然し悲しみは刻々に深まり、寂しさは時々胸をうつ。吾邦は最も聡明なる人物を喪つた。而して余は最も寛仁なる父を、主人を亡った。だが然し余は思ふ。公は死すべき時に死なれた。余は更めて公の聡明と勇断に、最上の敬意を表する。而して余が最後の機会を失ひたるに就いて、無限の悲しみと悔恨を以て公に御詫びする。


細川護貞『細川日記(下)』(中公文庫・初版は昭和二十八年二月磯部書房『情報天皇に達せず』、著者によれば、恩師狩野直喜先生より『黙語録』という名をつけてもらっていた)