芭蕉、行脚の俳諧師、旅の俳人

 東京の多摩に福生市というところがあります。そこの森田家という旧家の蔵書を調査したことがありますが、森田家は、明治の初めに松原庵四世友昇という俳人を出した家で、俳書が蔵書の大半を占めているのは当然のこととして、その他に幕末から明治にかけての江戸漢詩壇の第一人者として知られた大沼枕山の書がたくさん出てまいりました。
 大沼枕山は、東京上野の池の端に住んでおりましたが、そこからわざわざ多摩の門弟たちを指導しに来て、その時に書き残したものだそうです。いろいろ調べてみると、大沼枕山の子孫の方がご健在だということがわかりまして、そのお宅には、大沼枕山に宛てた弟子からの手紙がたくさん残されていました。その手紙を調べてみますと、枕山の弟子の中には、多摩地区の自由民権運動に関連した人たちの名前も入っています。
 一方、森田友昇が明治十二年に松原庵という庵号を継いだ時、その記念集として出版された『浅川集』の序文は、横浜の漢詩人の平岩梅花が文をつくり、多摩地方の民権運動の先駆者として知られる石坂昌孝が揮毫をしておりました。石坂昌孝は、北村透谷の夫人・美那子の父に当たる人です。
 これらのことから浮び上がってきますのは、俳諧が、まず庶民文化の基盤を培い、その上に漢詩文の教養が重なり、やがてその中から自由民権運動の思想が芽生えてゆく、という構図です。森田友昇は、八王子の女流俳人、榎本星布尼の名跡を継いだものですが、もともと松原庵というのは、西行芭蕉の跡を慕って生涯を旅に明け暮れた白井鳥酔という人が、江戸の品川に結んだ庵の名前ですから、友昇の場合も、旅の俳人と無関係でなく、そもそもは旅の俳人から始まったといえるでしょう。

尾形仂『俳句の可能性』のうち「旅と俳句(平成二・10・7、第三回奥の細道シンポジウム基調講演)」「文化への貢献」より