京都大学教授・佐伯啓思 「菅現象」をめぐる困惑

(産経【日の蔭りの中で】2011.7.18 03:07後半)

 …もしも、菅氏がもっぱら権力に関心をもつ首相不適格者(その点で人格的な問題をもつ人物)だとすれば、そんなことは以前から民主党員にはわかっていたことではないのか。ひとたびは菅氏を支持した民主党員が、いまさら「首相にふさわしくない」などといえる柄ではあるまい。
 しかし、もっといえば、これは「政治」というものの理解に関わる。民主党は、ことさら政策論議といい政策選択といってきた。国民は合理的に政策選択をせよ、と訴えてきた。しかし、実は、民主政治にあって国民が見るべきなのは「人物」なのである。選ぶべき基準の基本はまずは人物なのである。政策よりも、それを実現する人物をわれわれは見なければならない。私は、菅氏を知らずとも、それでも昔からあの笑顔や話し方に何か居心地の悪いものを感じていた。もっともこれは「個人的感じ」であって、だからどうというわけではないが。
 民主政治の質は、結局のところは、われわれの「人を見る力」に依存するのである。だから、小沢(一郎元代表)、鳩山(由紀夫前首相)、菅のトロイカによって走り出した民主党をひとたびあれほど支持した人々は、いまさらこの三人が期待はずれだったなどと簡単にいえるものではあるまい。ただ、自らの「人を見る目」のなさを反省するほかあるまい。
 政策は言葉で語られる。言葉は重要である。しかしまた、今日の政治舞台では言葉はあまりに軽々しく、便宜的でかつ耳当たりよく使われる。すると問題は、言葉を使う人物へと戻ってくるのであり、われわれの人物を見る目に帰着するだろう。民主政治の土台は、国民の「人を見る目」にあるといわねばならない。