餘生の文學

 兎に角、何かはつきりした目的があつてそれが他のことに優先してゐる間は文學の仕事は出來なくて、その文學といふものを何かの形で樂むにもその餘裕が得られない。このもの欲しげな所がないといふのが文學の一つの定義にもなつて、これが無愛想に終る代りに親しく語り掛けるといふもう一つの性格がそこから生じる。それが何千年前のものであつてもさうで、マラルメランボオが書いたものにしてもさうであり、これは一人の人間がそこで息をしてゐるのが感じられるからだろうか。この特徴は決定的であつて、その爲にこそ人間は餘生に入つて餘生を送り、若さや未熟が賣りものになつてゐるものではそれに幾ら文學の名が被せてあつてもその親しさ、そこに一人の人間がゐるといふことがこつちまで傳はつて來ない。又その筈で、息急き切つて坂道を駆け上がつて行くものがあつたりすれば我々がそこに見るものは人間よりも勞働であり、勞働が美しいなどと考へるものはまだ自分でそれをやつたことがないのである。

吉田健一「餘生の文學」(新潮社・1969年初版)より