魅死魔幽鬼夫 昭和45年11月

前略
小生たうとう名前どほり魅死魔幽鬼夫になりました。キーンさんの訓讀は学問的に正に正確でした。小生の行動については、全部わかつていただけると思ひ、何も申しません。ずつと以前から、小生は文士としてではなく武士として死にたいと思つてゐました。
 今さら御挨拶するのも他人行儀みたいですが、キーンさんが小生に盡して下さつた御親切、友情、やさしさについては、ただただ感謝のほかはありません。キーンさんのおかげで、僕は自分の仕事に自信を抱くことができましたし、キーンさんとの交際はたのしさに充ちてゐました、本当に有難うございました。
 この上何かお願ひすることは洵に厚かましいのですが、一つだけお許し下さい。といふのは、ただ一つの心残りは「豊饒の海」のことで、谷崎氏の死後急に谷崎氏に冷たくなつた(裏)クノップが、これを出し澁ることが考へられます。第一巻第二巻は翻訳がほとんど出来てゐますから、大丈夫かもしれませんが、問題は第三巻、第四巻です。御面倒ですが、同じお願ひをモリスさんにもしておきましたので、モリスさんともご相談の上、何とかこの四巻全巻を出してくれるやう、御査察いただきたく存じます、さうすれば世界のどこかから、きつと小生といふものをわかつてくれる讀者が現はれると信じます。
 この夏下田へ来て下さつた時は、実にうれしく思ひました。小生にとつての最後の夏でもあり、心の中でお別れを告げつつ、たのしい時をすごしました。
 何卒この上も御元氣で、すばらしい御研究を次々と発表されることをお祈りいたします。
   昭和四十五年十一月
                                        三島由紀夫
 ドナルド・キーン

三島由紀夫未発表書簡 ドナルド・キーン氏宛の97通」(2001年・中公文庫)より