遠花火

 四十歳代のはじめに、私は深刻な神経障害に落ち、その蟻地獄のような世界から、医師は私の脳に電気ショックをほどこすことによって、ようやく徐やかな治癒の昇り坂に、私を引き上げることに成功した。
 私の心はその手術によって、最近の全ての記憶が消し去られて、異様に敏感な「タブラ・ラーサ」のような白紙状態となり、あらゆるものに、ほとんど小児のような反応を示すことになった。
 そうして、そのような心の状態の最中に、向こうから積極的に仕事で接近してきた、若く活発な眼の表情の豊かな、気まぐれな男の子のような美貌の映画女優に、私の浮遊していた意識は、突然に集中して遁れられなくなった。
 そうして、私は撮影所から彼女の車を借りて、独身男の家へ帰る途中、ある鉄橋を渡る時に、車の窓から侘しげに夕空に傘をひろげる遠い花火を目にとめた。
 すると、思いがけないことに、長い間、忘れていた、私の少年時代の情景が夢のように心のなかに立ち現われてきた。
 それは下町のビルの屋上で、ある友人と花火を見ている時の場面で、私はその友人に対して、それまで私の知らない、やるせない心という、自分の支配できない感情に捉えられていたのだった。そうして、それを口に出せず、目のまえの彼の背中に、指で片カナで思いを書いたのだった。


  遠花火ゆびで背に書くおもひ哉



中村真一郎「樹上豚句抄(じゅじょうとんくしょう)」(東京四季出版・平成5年12月20日発行・限定1000部)より