田園都市から学園都市へ

『目白文化村』を久しぶりに読み返した。堤康次郎は早稲田の学生時代から落合村に下宿していて、軽井沢や箱根のリゾート開発の一方で、地元有力者の協力を得てこの山手の田園都市を開発し始める。落合村だが最寄駅が目白、はじめは不動谷に沿っていたので「目白不動園」、大正時代に流行した文化住宅からとって、「目白文化村」という名前に変わった。関東大震災で郊外宅地のニーズが高まり大学移転の機運も。先の有力者の縁で大泉村、ほかに小平村、谷保村に学園都市を計画する。小平には川越鉄道にそって津田塾大学の移転が決まっていた。そこで康次郎は国分寺を起点とする多摩湖鉄道を敷設し「国分寺大学都市」を計画。実際には明治大学の誘致に失敗し46人乗りの客車は運転手と車掌の他はいつも乗客が2人で42人乗りと揶揄されたそうだ。これが西武の鉄道事業のはじまりである。近郊リゾート地として多摩湖を意識していたのだろう。大泉も駅名では残っているがやはり失敗し学園都市構想が成功したのは谷保村のみ。東京商科大学が一橋から移転を決めた。街並みは美しく成城学園などと比べれば大学通りの存在が大きい。名前は国分寺と立川の頭文字をつけて「国立」とし、駅舎が箱根土地開発から寄付された。落合村からその本社を移転。国立の街は康次郎の手によって偶々生れたのだ。