吉田健一59歳

 連歌も詩である。しかし孤独に徹することを知らないで詩人であるというのはあり得ないことであって、その孤独に心を鎮めて連歌の席に加わることで優雅が生じ、その優雅が極る所に詩人は再び孤独の詩人に戻って確かに安東氏が言う通り連衆の心での句作りと孤独の句作りは俳諧の宿命でなければならない。またそれならばこれは一般に詩の宿命でもあって連歌だけのことと思うならば同じ優雅を旨としたものに相聞歌、恋愛詩がある。
 こうして安東氏は芭蕉を語ることで一人の詩人を語り、これが紛れもない詩人だったことから氏がその行動・業績に就て説くことはそのまま詩一般の問題に繋り、またそこから逆に芭蕉がその真面目を発揮するという結果が得られる。あるいは真面目というような鹿爪らしい言葉は安東氏の本の印象を伝えるのに用をなさなくて、芭蕉はそのかくあったのでなければならない姿をあらわし、その詩人の性格が紛れもなくその生き方であることで一個の人間でしかないものにな(り)(?)、芭蕉と我々の間にある一切のものが取り払われる。
(昭和46年12月「朝日新聞文芸時評、「俳諧の本質に眼開かる」より)