「本意」への回帰

…人格化された神が登場し、筋の展開をもつ神話は、いちばん本格的な神話だが、さまざまな事物について民族意識の奥底から滲み出すものが形をなしたとき、形の大小や構造に関わらず、それらをすべて神話と認めるならば、光源氏の「光る」や輝く妃宮(ひのみや)の「輝く」も、ごく小型ながら、それ自身でひとつの神話だといえよう。なぜならば、そういった光のイメィジを掘りさげてゆくと、日本民族の意識に底深く潜む何ものかに行き当たるからである。
 同様の意味で、連歌人が「月は秋のものだ」「人を恋い慕うのこそ恋だ」というのも、そのうちに民族意識の深層とつらなるものを感じとるならば、それは神話の性格をもつ。なびく尾花も、鳴く虫も、わたる雁も、それぞれ神話になることができる。「語り」の形態をもたないだけのことである。花も、霞も、郭公も、露も、菊も、時雨も、みな神話となるであろう。本意(ほんい)とは、このような意味での神話への道筋にほかならない。…
 連歌における本意は、要するに、消極的と積極的との両面にわたって意味をもつ。消極的には、連衆によって構成される「座」に共同的な「雅」の感覚を与えることで、いわば協和音を出すための「詩の音程」である。積極的には、共同的な感じかたに深まってゆくプロセスにおいて、民族意識の奥底から滲み出てくるものに触れ、日常の感覚を新しくされることだといえる。初期の本意は、前者に属するものであったが、時代がくだるほど後者が強くなる。そうして、後者の完成点は、連歌師よりも、むしろ俳諧師芭蕉に見られると思う。


小西甚一「宗祇」(筑摩書房 日本詩人選16) 
 Ⅱ連歌 7「本意」への回帰 ――協和音から民族意識の深層へ