「さればさ」の効用

 …しかし、この連続性は、例えば『努力論』において、いたるところに環流する気によってすべてを説明しようとしたのとは異なっている。そこでは、人間も含めたすべてが「説明」はされるものの、初期の小説と同じように、自然のなかに自然と同化し得ない人間がおり、自然と人間が対立している。この対立があるからこそ「努力」が必要であり、聖人が重要な概念として登場した。
 ところが、「遺稿」であらわされていることは、自然とは異質な人間がいるというのではなく、人間的な自然しか存在しないということだ。自然は職人の仕事や努力によって接合するべき別次元の存在ではなく、人間の繋念の多寡によって濃淡づけられたこの世界である。人間は別次元の世界に参与するのではなく、世界を拡大し造りあげていく。それゆえ、和漢の古典のなかに身を置きながら、それをなにかから守ろうという姿勢からは遠ざかっていられた。造りあげていく世界には果てしがなく、繋念によって濃淡づけるべき対象は増えるばかりであるから、なにかを守っている暇などなかったに違いない。繰りかえし露伴を訪れた二つの領域の衝突はこうした世界の拡大とそれを中断しある意味にまとめ上げようとする二つの意志との戦いであり、常に連続性が、繋念が、世界の拡大が僅かの差で勝っていることが幸田露伴幸田露伴たらしめた。


 齋藤礎英「幸田露伴」(2009年 講談社)より