古田晁に先立たれて

…昭和二十七年、筑摩がどん底に落ちた頃、この人が筑摩に用立てた金の総計は七千五百萬円に及んでゐる。利息は町の金融業者一般にくらべてはるかに安かつた。私はこの人と小野の古田の家で会つたことがある。無駄口を全く利かない人であつた。真剣の下を幾度かくぐつた人の持つ沈静さ、ニヒルの色をふくんだ静けさをこの人に感じた記憶がある。この人も「奇蹟」を生んだ一つの要因をなしてゐる。なぜこの人が古田に巨額の融通をしたかはわからない。道楽に金を貸したわけではあるまい。やがて必ず回収できると思つたのでもあるまい。筑摩の文化的志業を応援したわけでもないだろう。やはり古田といふ人物の魅力に動かされたとでもいふ外ないやうな気がする。古田に対してこのMといふ人物と似たやうな感じを抱いた人たちが他にもゐたに相違ない。洋紙関係にも、書籍販売関係にも、印刷や製本の方にもゐたらう。筑摩をとりまく人々の応援によって生きのびることができたわけだが、古田が単に受身だつたわけではない。筑摩の幹部は古田自身をふくめて殆ど文科出であつたが、いちばん商売の骨(こつ)を心得てゐたのは彼だつたと思ふ。祖先伝来の財産を蕩尽し、単身アメリカへ脱出して独力で産を興した父上の豪宕の血が古田にもうけつがれ、その父のもとでの八年間の商売修行が古田の背景にあつた。…

唐木順三「光陰」(昭和四十九年 筑摩書房 原文旧字旧かな)