幸田露伴60歳

 紹巴は時々この公を訪うた。或時参って、紹巴が「近頃何を御覧なされまする」と問うた。すると、公は他に言葉もなくて徐(おもむ)ろに「源氏」とただ一言。紹巴がまた「めでたき歌書は何でござりましょうか」と問うた。答えは簡単だった。「源氏」。それきりだった。また紹巴が「誰か参りて御閑居をお慰め申しまするぞ」と問うた。公の返事は実に好かった。「源氏」。
 三度が三度同じ返答で、紹巴は「ウヘー」と引退った。なるほどこの公の歩くさきには旋風(つむじかぜ)が立っているばかりではなく、言葉の前にも旋風が立っていた。
(昭和3年『魔法修行者』より)