矢作俊彦53歳

「ああ、そうだ。あの花火、どうもありがとね」と、少女は言った。
 思い出すまで、少し時間がかかった。
「あれね。うちに帰ってすぐやったの」
「朝だったじゃないか」
「そうだよ。お風呂場で電気消して。もう煙ったくて死にそうになっちゃった。でも、あれなかったら、家帰んなかったよ。夜だったら、外でできたし」
 彼女は鼻先をつんと上げて微笑んだ。
「たまたまってことあるじゃん。たまたま一回のときに出くわして、それきりだったら、結局、それが本当みたくなっちゃうね」
 彼は少女を見て頷いた。帰るところはどこにもない。あのとき、そんな場所は失われていた。ロボット法を犯した少年ロボットと同じ。たまたま一回きりのことを、それと気づかずやり遂げていた。あの嫌な臭いのする貨物船の後部デッキで“東京流れ者”を口ずさんだとき、俺は故郷(クニ)を捨てたのだ。ちょうど映画館が暗くなる瞬間のように。
(2003年『ららら科學の子』より)