川村二郎69歳

 教育論議に立ち入るつもりは今はない。しかしかりに記憶力より思考力が大事だとしても、何も知らなければ、考えることもできないのである。そしてまた、わけも分らずただおぼえていた言葉の意味が、後になって初めて分った時、最初から嚙んで含めるように教えられた場合より、よほど深く心の底に落ちつくということもある。まず言葉から。言葉の音と文字から。そこから入って行って、意味にたどり着く。それは迂遠なようでいて、実は本質を捉える最も確実な道筋であるかもしれない。少くとも文学の理解においては、それは第一の正道であるかもしれないのである。
 『運命』が「音読」にふさわしいのは、その道筋に即してのことである。
(1997年講談社文芸文庫『運命・幽情記』解説より)