東京と怒りの露伴

 徳川軍の中心をなしていたのは、三河武士と甲州武士だった。武田家が滅んだあと召し抱えられた甲州武士と元々徳川家の家臣であった三河武士は、両者の負けじ魂によってうまい具合に士気を保ち、切磋琢磨していた。遺老の話によれば、三百年の泰平によって直参の侍たちがすっかり軟弱になった幕末においても、三河武士と甲州武士の意地の張り合いはなお続いていたそうである。それを思えば、両者の競争がどれほど徳川家の泰平を維持し、江戸の道徳的堕落を防ぐ力となっていたかが思われようというものである。更に露伴は、政治を裏側から、庶民の目から見た小説戯曲などを見ても、幕末を除けば、有力者の堕落を訴えるような内容はさほどなく、地方の士人の迂闊さや不作法を軽く笑うものが見られる程度だという。「幸なりしかな江戸や、敬すべかりしかな徳川氏初期の旗下の士や」
 それに較べて東京の指導者に収まった薩長土肥の面々はどうか。三河武士、甲州武士が士道において相競ったのとは似てもにつかない有様ではないか。指導者としての身分を自覚することなく、藩閥同士で無益な争いを幾度となく繰り返すばかりか、その一方では、競って自分たちの姦淫を天下に公示している・・・

齋藤礎英『幸田露伴』より 第二章人間という火の玉 2東京と怒りの露伴 〜『一国の首都』(明治32年)に関するくだり